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南宮大社 例大祭

2012年5月5日は、南宮大社の例大祭で、4日に引き続き南宮大社へ祭りを見に行った。

11時過ぎに神社に到着、境内はまだ閑散としていたので、境内の奥のほうへ行き、蛇池のほとりで持ってきたサンドイッチと紅茶で腹ごしらえをして12時を過ぎてからまた境内に戻った。

12時半ぐらいから、祭りに参加する人たちが集まりはじめて賑やかになってきた。

この祭りについては、南宮大社のHPによると、

「 例大祭には、神幸式と蛇山神事が行われる。

神幸式は、南宮大社が、かつては北へ二キロほどのところの府中の御旅神社の地にあったという伝承から、年に一度、祭神がそこへ神輿に乗ってお帰りになるという意味合いの神事と考えられ、神輿渡御式ともいう。

午前十時、氏子をはじめ全国の金属業者、近隣の関係者が拝殿に参列して厳粛な式典を行い、神幸式の幕が開く。

午後一時半、一番太鼓を合図に神幸式に奉仕する氏子たちが法被姿も勇ましく、続々と高舞殿に集まってくる。 高舞殿には三基の神輿が安置され、祭神の神霊が移されるのを待っている。神輿は寛永十九年の社殿再建の際、三代将軍・徳川家光が寄進した欅造りの立派なもので、金具の所々には三葉葵の紋が組み込まれている。」


家光が寄進したという神輿は、境内向って左にある神輿舎の中にあって、実際に祭りで担がれる神輿は本体はプラスチック製の新しく作られたものだそうだ。

地元のおじさんによると、昔は百姓で頑強だったから重い神輿も担げたが、いまの衆は机の前に座っての仕事のひとばかりで、重い神輿は担げないので、軽いプラスチック製の神輿になったとか。

 

「午後二時、二番太鼓が鳴ると、宮司によって主祭神の金山彦命をはじめ樹下神社、高山神社の神霊が三台の神輿に移される。

午後二時半、三番太鼓を合図に神輿が行列をともなって府中の御旅神社に向かって出発する。

行列は、先導(御旅神社総代)、先導大麻(神職)、御幸太鼓(神職)、前導(総代)、供奉(町長・議長など)などを先頭にして御神宝、神輿が続く。

楼門を出て下向橋を渡り、大鳥居、石鳥居をくぐり相川へ向かう。この間、途中で神輿を一斉に差し上げる動作「さす」を三回行う。」

相川では、昔は川の中を「禊の川渡り」したそうだが、今は、南宮山を背に橋を渡る。

「行列が相川に架かる御幸橋を渡って御旅神社に着くと、遷霊の祝詞が奏上され、一連の神事が行われる。

 神事が終わると「胡蝶の舞」が奉納される。「胡蝶の舞」は、頭には山吹の花をつけた冠、背には蝶の羽をつけた巫女が、右手に山吹の小枝を持って舞う独特の雅楽である。」

 

御旅所は、「南宮御旅神社」になっていて、金山姫命(南宮大神の御始神)と、相殿に、豊玉姫命(安産成育の守護神)・埴山姫命(沃土豊産の守護神)が祀られている。

すぐ南隣には「白鬚神社」があり、猿田彦命(郷土安泰・河川水害の守護神)が祀られていて、こちらでも神事が行われた。

両社の由緒書の石碑があり、南宮御旅神社については、

「往古、諸国に国府を置かれた時、美濃国には要衡の地なるを以ってこの府中に定められた着任した国司の美濃守は毎年正月元旦に国内の名社を次々と参拝したその順位から一宮二宮三宮の名を生じ、国府には国中の諸神を招神して国の安泰を祈るを古例とした。当社の創建はこの国府の宮であった。

 国司の時代から守護の中世の代になると国府招神の古儀を承けて南宮神の神幸は華麗なる母衣花(ほろばな)に飾られ神輿三基は相川の清流に禊の川渡りを行い、御幸道を走りこみに依って参向した。在庁の守護代諸役人を初め郷人等がこれを迎えて奉拝するを恒例とする内、当社は次第に南宮神の御旅神社と仰がれるに至った。

 寛永19年(1642)徳川家光公は春日局の諸願成就奉謝の願いを入れて南宮社を旧に復して再建した時、当社も深き神縁に依って造営の栄に浴した。以来将軍寄進の栄光を仰いで、その社構は堅く守られて現本殿に伝え残された。

 悠遠なる古代より神祭勤仕怠らず、父祖相承けて守り来た中に近時広大なる境内を玉垣を巡らして囲み、両者本殿も更に瑞垣を以って齋い樹てるに至った。これは正しく全氏子等の厚き崇敬の結晶であり、永く後代に讃え伝えらるべき功業である。

ここに謹みて改まる平成の御代の御大典斉行の年を迎えて心を新たにして益々祭祀を厳修し御神徳の弥栄を祈り奉る。」


白鬚神社については、

「古来府中の守護神として字葉生に鎮座され遠隔の地なるを父祖相承けて祭儀厳修奉仕を続けて気たところ昭和39年3月開け行く時代の要請と社地環境保全の見地から氏子一同衆議議決しこれを御旅神社南側に遷座移建されるに至ったのは祭儀萬代の為の畏き御神慮と拝察される。然るところ昭和49年南宮大社の式年遷宮仮殿の用材を寄進されるに及んで拝殿造立の運びとなり氏子一同衷心協賛して本殿に相応しい社殿の完備を成し竣えた。

 以来両社相並んで鎮祭され御神徳益々顕揚されて今日に至る。」

「休憩のあと祭神が本社へ帰る還幸に移る。御旅神社を後にした行列が同じ道を戻っていく。その途中、宮代の市場野まで来ると、祭礼場で神輿は「神輿上がり」に安置され、「だんじり」の上で男児による還幸舞が始まる。

舞は「羯鼓舞」「脱下舞」「竜子舞」の三種類があり、総称して還幸舞を呼ばれ、国指定の無形文化財になっている。

 羯鼓舞は、稚児姿の男児二人が頭に宝冠を頂き、前に羯鼓をさげて登場。撥で羯鼓を打ったり、お互いに交叉したりしてリズミカルに舞う。

続いてユライと呼ばれる紫縮緬の頭巾をかぶり、緋縮緬の綿入を片袖脱いで腰にまとった男児二人が舞う。片袖を脱いで舞うので、脱下舞という。また、この舞にだけ歌があって歌い出しの最初が「ありがたや」となっているので、有難舞ともいわれている。

最後の竜子舞は、羯鼓舞と脱下舞を演じた男児四人が、木彫りの竜頭をかぶり、鱗紋様の衣、たつつけをはいて舞う。」

 

櫓の上で舞う蛇頭も、「蛇山神事」という神事の主役であるとのこと。

「もう一つの神事である蛇山神事は、神幸式と平行して行われる(国指定重要無形文化財)。五穀豊穣を願う農耕信仰の神事で、五日の午前一時、南宮山の奥にある蛇池より降神した蛇頭を宮代の市場野の祭礼場に運び、蛇山という高さ役十三㍍の櫓の上に取り付ける。明け方から神輿が還幸するまで「ドンドコドンドコ」の囃子に合わせて蛇頭を上下左右に勢いよく揺り動かし、口を開閉して舞い続ける。 五人囃子の音色が一段とせわしくなると、蛇山の上の蛇頭と、だんじりの竜子舞が激しく乱舞して祭りはフィナーレを迎える。」

還幸舞が終り、神輿が帰途につくと、餅撒きではなく、祭りを彩った「母衣花(ほろばな)」が舞台から投げられて集まった氏子がそれを持って帰る。

 

神輿は、3基のうち最後部の一基は右手に折れていったが、前の二基は南宮大社の東に位置する摂社の「大領神社」へ向い、二番目の「彦火火出見命」が乗る神輿だけが境内に入っていった。

 

その後、三基が本社前に揃い、境内の舞殿に帰り着いて、金山彦・彦火火出見命・見野命も神輿からおりて本殿に帰り、祭りは19時ごろに終わった。